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あさぎり町ふるさと会 杉下 潤二
まえがき ♪幾年ふるさと来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風 門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど 荒れたるわが家に 住む人絶えてなく
これは人吉出身の犬童球渓の侘しい「故郷の廃家」である。この曲と「旅愁」は犬童球渓がふるさとを偲んで書いた訳詞だそうである。生家は記念館としていまも残っているが、我々が生まれ育った人吉・球磨地方は今も過疎化が進み「・・住む人絶えてなく」なった空き家が増えている。稼業継承者がなくなり、過疎化が進むこの盆地は誕生して二百五十万年、今回はわれわれが生まれ育った球磨盆地の誕生と変遷の話である。
1. 球磨盆地と湖の形成と変遷 球磨盆地は東西約30km、南北約15kmの盆地である。今でも目視できるのが「リニアメント」と呼ばれる湯前町から人吉市東部の大畑まで約20 kmの「人吉盆地南縁断層」である。このように、球磨盆地は「人吉盆地」と紹介されているが、後述するように、人吉市部と郡部では地質や地層が異なり、盆地景観も全く異なっている。よって本稿では「球磨盆地」と呼ぶことにする。また、百万年前の球磨盆地は湖であり「古人吉湖」と紹介されているが、訳は後にして、本稿では球磨湖と呼ぶことにした。
球磨盆地は、今から250万年以前に地殻変動が進み、およその日本列島が形成された時代にできた。ただし、今のような盆地平野ではなく湖であった。どうしてそれが分るかと言うと、球磨地方固有の地層、人吉層が存在するからである(鳥井真之ほか: 地質学雑誌 105巻,8号,p585-588.1999年)。
この地層は湖に生息していた生物の死骸からなる湖底層であり、約250万年前の鮮新世という地質時代のものであることが分っている。球磨盆地は湖となる前に出来ているわけであるから、盆地の誕生は250万年よりももっと前である。盆地はどのような仕組みでできたのであろうか。盆地となった要因は、今も目視できる球磨盆地南縁断層であるが、盆地となって水が貯まり湖となった仕組みを図1で説明する。
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| 図1. 球磨盆地と湖の形成 |
盆地形成要因となった人吉盆地南縁断層というのは、湯前町の田上地区から南西方向に人吉市の大畑町まで、長さ約23kmのほぼ連続した断層である。
図1の①において台地ブロックの左側が下がり右側が上がった図にしてあるが、断層はどちらかが上下にずれ動くことである。球磨盆地の場合は、右の山体側が隆起したことによって盆地が形成されたとされている。この南縁断層は二百数十万年前から南九州が反時計回りに変動し、中北部九州を分裂させるような地殻変動が始まっていた。その南限に相当しているのが人吉盆地南縁断層である。この断層の地震リスクについては「九州が二つの島になる話」で述べたので、本稿では盆地と湖の形成にどう関与したかを説明する。
図1の②において、すべり面の崖から土砂がすべり落ち、緩やかな斜度となっているが球磨盆地では、湯前町と錦町あたりでは少しの差はあるが直線的地形(リニアメント)から球磨川までの平均斜度は1%程度である。1%は100mで1mの高低差のことである。多良木~あさぎり町の南縁断層近くを走る43号線から球磨川までの距離は5キロほどであるから球磨川は50mほど低くなっている。流水は当然、低い方へ流れるから最も低くなっている盆地北縁に川、球磨川ができた。この球磨川に注ぐ主な川は、球磨川水系の川であるが、東から西へ流れのものが3本、南から北が16本、西から東が3本、北から南への流れが12本あり、ほとんどが南北方向から球磨川に流れ込んでいる。水の流出口がなければ貯水となり図1の③のように湖となる。
その形と大きさ及び想定画像を現在の地形に描画したのが図2である。湖の形状は湖底層の人吉層が発見された箇所を繋いだもので、湖であったことが発案されたころは、人吉層の発現箇所が人吉市近傍だけであったことや人吉あたりの水深がもっとも深かったことから湖の名称も「古人吉湖」と呼ばれた。しかし、そのごの調査で球磨広域農道(フルーティロード)の高原(たかんばる)や多良木でも湖底層が発見され、上球磨地方にも及んでいたことがわかり、筆者は「球磨湖」と紹介している。
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| 図2. 想定球磨湖の大きさと形(左図) 想定風景(右図) |
球磨湖(古人吉湖)は堰き止め湖である。堰止湖とは、地震・火山噴火・土石流などで川や谷が土砂や溶岩によりせき止められ、その上流側に水が溜まってできた自然の湖であり、人工ダムに比べて決壊の危険性が高い。球磨湖も今から百万年くらい前、湖水は流出して肥沃な平野が出現し、主に南北から流れ込む水は球磨川となった。それにしても、本当に球磨盆地は湖の底だったのだろうか、どこが決壊し、湖の水はどこから流出したのだろうか、今でもその痕跡はあるのか、デジタル標高地図で探索してみた。
図3は、国土地理院による九州地方の標高を基に作られたとされる地形図であるが、この図から球磨盆地の輪郭が標高差となって現われている。しかもこの図には、人吉球磨地方の西側、つまり八代海に臨む葦北町とあたりの山体が崩れ欠け(白〇印)ていることが示されている。これはかって存在した湖の水の流出箇所にほかならない。往時の湖水流出は現在のような八代市内ではなく、胸川ルートで大口方面に流出したと考えられていた。しかしこのデジタル標高図を見るとそうではなく、球泉洞の対岸あたりから西へ流れ、八代海の葦北あたりに抜けていたと考えるのが妥当である。
それがどうして、流れが現在のように、球泉洞あたりから北上する球磨川になったのかである。それは、球泉洞の西南にある鏡山旧火山の活動である。鏡山は約二百六十万年前の後期新生代の火山岩の山体であり、葦北郡に属している。鏡山の北麓が大野盆地であり東側は球磨郡の球磨村である。この鏡山旧火山活動は球磨湖や球磨盆地の変遷要因であり「相良村誌・自然編」の古人吉湖イラストにも、鏡山火山(720m)が描かれている。この旧火山は肥薩火山群の一つであり、近傍には旧火山の矢城山(686m)、鬼岳(734m)、大関山(901m)、国見山(969m)がある。
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| 図3. 湖水流出箇所(画元:九州国立博物館) |
次に湖であった証拠である。図4は球磨総合運動公園の造成掘削によって現れた露出した地層であるが、これこそ人吉層と呼ばれる湖底層である。白く見える地層が真水に生息して生物の化石であり、こげ茶色の部分が砂利や火砕物である。この公園には、球磨地方で長らく教鞭をとっておられた地質学会員の原田正史先生の説明板がある。そこには、およそ次のように書かれている。
「人吉層は、人吉盆地に水が溜まり人吉湖と呼ばれる大きな湖だった時代(260万年~90万年前)に、湖の底に流れ込んだ土砂や火山灰などが流れ込んでできた地層である。真水に堆積した地層であることを示すドブガイ、カワニナ、タニシ、水草などの化石やメタセコイヤなど樹木の化石があり、さらに人吉湖の南にあった火山から流れ込んだ溶岩もはさまれている。人吉層は盆地中央で厚く、盆地の端に近づくと次第に薄くなり、最も厚いのは人吉市の中心部あたりで約600mである」。
カワニナもいたとあるが、カワニナは清水に棲む巻貝であり、ほたる幼虫の餌となる手がかり生物であるから、その頃の湖では、メタセコイヤの枝間を蛍が舞っていた。
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| 図4. 球磨総合運動公園の湖底層(人吉層) |
以上、球磨盆地と湖の始終である。つまり、地殻変動によって球磨盆地ができ、水がたまって球磨湖となった。しかし、いまから百万年ほど前に球泉洞近くの鏡山火山活動によって山塊が崩壊し、湖水は葦北方面に流出して肥沃な盆地平野となった。その後の火山活動や地殻変動によって川の流れが西向きから北向き変わり、現在のようになった。悠久の流れのままに地球はその痕跡を残していた。
湖水がなくなって肥沃な平野となるのであるが、盆地は幾度も肥薩火山群の噴火活動によって破局的、壊滅的打撃を受けた。古くは30万年前の加久藤カルデラ噴火、縄文時代には姶良カルデラ噴火であり、球磨盆地は火砕流によって埋まり、その痕跡が凝灰岩の深田石であり人吉の「鹿目の滝」や「釜の奥戸」である。盆地の黒い土(黒ボク土)は古い火山灰に由来し、白い砂のシラスは3万年前の姶良カルデラ噴火の入戸火砕流である。こんな歴史を詰め込んだ場所が球磨総合運動公園の崖である。ここは、筆者のふるさと探訪先でいつも最高の目的地であったことを述べ、本稿を閉じる。(2026・7・15)